名所旧跡

陝西省地図
中華民族揺籃の地
渭河のほとり、黄土高原や秦嶺山脈に守られた関中盆地の西安一帯には、60万年前と推定される藍田猿人の遺跡や、6~7千年前の仰韶文化の環濠集落蹟である半坡遺跡などが残されている。また中華民族の祖といわれる炎帝の生地と黄帝の墓など古代伝説に彩られた場所もある。紀元前11世紀、この地を拠点とした周の武王は姜子牙らの補佐を得て殷を滅ぼし、西周王朝を建て、今の西安西郊外の豊京と鎬京を都とした。以来、唐に至る13の王朝が西安地区に都をおき、その治世は合わせて1100年に及んでいる。

統一帝国秦、漢の都
西安の西の宝鶏から出て、紀元前221年に初めて全中国を統一した秦の始皇帝は、西安西北の咸陽を拠点に国造りを行い、咸陽宮や阿房宮を造営し、万里の長城や壮大な陵墓を残した。続いて紀元前202年劉邦が項羽を破って天下を取り、漢帝国を興して高祖となる。今の西安市街の西北、渭河の南岸には未央宮、長楽宮などの壮大な宮殿群が造営された。紀元前139年漢の武帝は大月氏国へ張騫を派遣した。行きと帰りに匈奴の捕虜となり、13年ぶりに帰国した張騫は後年再び西域へ赴き、東西交易発展の大きな基礎を固めた。司馬遷が「史記」を著したのもこのごろである。今日前漢の墓からは質の高い漆器や絹織物、金縷玉衣などが出土し、紙も発見されており、当時相当に高い技術を備えていたことを伝えている。長安の名が使われたのも前漢からで、「長久平安」を意味するこの名は後の各王朝でもほぼ引き続かれた。前漢から一時政権を奪った新も長安に都をおくが、後漢になると都は洛陽に移された。313年西晋末期に長安は再び都となり、魏、北周もこの地に都を築いた。

唐代の国際都市長安
589年、隋王朝が長安に建てられ、魏晋南北朝時代の300年にわたる分裂に終止符を打った。隋は漢の長安城の東南に大興城を造営し、荒地を人民に分与する北魏の均田制を継承し、科挙制度を開始した。2代皇帝の煬帝は大運河を開き自らの豪遊にも用いるが、以来運河は重要な交通路として今日まで使われることになる。618年、隋が滅亡し、唐が興る。唐は大興城を拡張して、現在の西安城内の9倍の広さをもつ長安城を造り、大明宮を築いた。律令制を確立し、大宗の貞観の治、玄宗の開元の治で国は繁栄した。玄奘三蔵らによってインドから経典がもたらされ、仏教は空前の隆盛を見、李白、杜甫、王維、白居易ほか数多くの詩人、文人が輩出した。シルクロードの東の起点として東西交易も活気づき、異民族への門戸は広く開け放たれた。都の酒家では碧眼の胡姫が酒をつぎ、ワインを飲む洒落者もいた。人口100万の長安は外国人が多数行き交う国際都市となっていた。日本からは7~9世紀に16回にわたった遣唐使が入唐し、長安には玄宗の側近として活躍した阿倍仲麻呂や吉備真備、高僧空海らの姿があった。こうして栄華を極めた長安だが、貴族の贅沢三昧、楊貴妃に心を奪われた玄宗の失政、安史の乱、黄巣の乱などから国運は衰退、907年唐帝国は滅亡し、長安は首都の座を失った。明代には西の都会として城壁が現在の形に装備され、1369年には西安府と命名された。

西安事変の舞台
西安が再び耳目を集めたのは1936年12月12日に軍閥の張学良、楊虎城らが国民党の蒋介石をか捉え、挙国抗日を迫った「西安事変」である。事件の舞台は華清池に現存しており、観光と近現代史教育の場になっている。西安はまた、かつて中国共産党中央機関が置かれた延安への窓口でもあり、当時多くの青年や支援者、外国人記者らが西安の八路軍弁事処を経て延安入りした。

西部大開発の拠点
現在の西安は中国西北地区の政治、経済、文化の中心になっている。市の行政区域は、市街地とその周辺の新城区、碑林区、蓮湖区、未央区、雁塔区の5区のほか、郊外の灞橋区、閻良区、臨潼区の3区、農村部の長安県、藍田県、周至県、戸県、高陵県の5県がある。また渭河を挟んで北側の咸陽市にも観光地が多い。西安は観光地のイメージが強いが、工業もなかなか盛んで、とくに航空機、ロケットなど航空宇宙産業は全国でもトップ水準といわれ、市の南部にはハイテク工業開発区が作られている。大学は西安交通大学など29校、研究機関は700ヵ所もあり、国家プロジェクト「西部大開発」を人材と技術面から支えている。